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男もすなる日記といふものを、男もしてみむとてするなり。野山に混じりて竹をとりつつ、よろづのことにブナシメジ。

学級日誌

もうすぐで21時を回る頃だ。

 

今日購入してさっきまで読み耽っていた「世界は救えないけど豚の角煮は作れる」の残りのページがどんどん減っていくのがもったいなくて、パソコンへ手を伸ばしブログを書くに至っている。

 

正直、毎日ブログを投稿しようとすればできるのだが、私の悪癖である「後ででいいや思考」がそれを阻んでいる。

 

自分の周りには興味をそそるものが多すぎるのだ。

 

シャドウバース、最近始めたニンテンドースイッチのドーントレス、WARFLAME、ピアノ、読書、YouTube、etc…

 

これらのせいでブログ執筆にモラトリアムが起こり、結局「あしたでいいや思考」へと昇格してしまう。

 

しかし、現在はその魅力的な読書に「読み切るのがもったいない」という理由でモラトリアムが起こり、ブログを書いている。因果が逆転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

もともと、文章を書くのが好きで、特に「学級日誌」が好きだった。ブログを書くようになったのもこの学級日誌に端を発している。日直が回ってくると、きっちり最後の行まで書いていた。暇な授業中は今まで他の人が書いた学級日誌を読んで時間を潰せる上に、教員からも文句は言われないから尚のこと学級日誌が好きだった。

 

けど残念なことに、殆どのクラスメートは「今日は雨でじめじめしていた。明日からテストだ。赤点を取らないようにしたい。」といったような適当に惰性で書いたような文章ばかりで、ふてぶてしいほどの余白が当たり前のように鎮座していた。「担任返信欄」には決まって「最後まで書きましょう」の一文が添えられていたが、意に介していないものが殆どだったし、担任も定例的に「最後まで書きましょう」の常套句を添えるだけで余白だらけの学級日誌なんぞ気にも留めてなかっただろう。びっしりと最後の行まで書いてある私のページは一際異彩を放っていた。

 

 

 

 

 

 

この余白が当たり前の学級日誌に限らず、小さい頃は「当たり前だったこと」が、時間が経っていつの間にか「当たり前じゃないことが当たり前」に変貌しているものは枚挙に暇がない。

 

授業中の挙手、大きな声で唱えていた「いただきます」と「ごちそうさまでした」、素直な感謝と謝罪、額面以上に大きく見えていた百円玉、転んでできた傷と瘡蓋。

 

みんな年を経るにつれ、自我が芽生えるにつれ、どこかに捨ててきてしまったものだ。

某少年革命家が「周りの子たちがロボットに見えた」というのにも少しは頷ける。

 

思えば、あの頃の学級日誌というアイデンティティの残滓が、今に影響を与えているのだろう。

 

ちょっとした投稿に1300文字の文章が付いてくる私のインスタのサブ垢、このブログ、好きだった学級日誌を再現するために買った日記帳。

 

枕元にあるその日記帳は冒頭の悪癖のせいでろくに使われることがない。

 

「一か月に一度」という制約が、学級日誌を学級日誌足らしめているのだと感じた。

 

埃を被った日記帳を買うために使った諭吉と、引き換えの一葉と4人の英世が不機嫌そうな顔で私を睨んでいる。